巻頭随筆

柴田記念館改修完成に際して

柴田 承二 

本園の正門を入った所に柴田記念館の立札が目に入りますが,年々10数万を数える本園への一般入園者の方々にとってもまた植物愛好者にとっても柴田桂太の名は牧野植物図鑑で有名な牧野富太郎博士やイチョウの精子発見者の平瀬作五朗氏のお名前程有名でなく,一体何者の何故あっての記念館かと思われることと思います。私の父柴田桂太はそれ程世間的に知られていない一生地味な学問に徹した一学者でありました。記録によると明治30年(1897年)東京帝国大学の植物学教室が本郷から当植物園内に移転したとなっていますから,それから昭和9年(1934年)本郷キャンパスの理学部2号館が完成し,そこに再び戻るまで約37年間植物学教室が正門,正面の坂を登りきった場所に木造平屋建の形で存在して居りました。その古い建物は太平洋戦争末期昭和20年(1945年)5月24日アメリカ空軍の東京大空襲で正門,大温室,日本庭園にあった通称「御殿」と呼んだ木造日本家屋と共に焼失してしまいました。その本館のすぐ背後にあった小さな木造モルタル塗りの建物は幸いに焼失を免れて今日まで残ったわけです。

さてこの建物ですがこれは大正7年父が「植物界におけるフラボン体の研究」で帝国学士院恩賜賞を頂いたのを記念して大正8年(1919年)その賞金に父の慶応義塾大学幼稚舎(小学校)時代の同級生で当時三菱の重役であった今村繁三氏が匿名で寄付して下さった御厚志を加えて合計5000円程で建てられ東大に寄付したものであります。私が知っている戦前の物価では1米ドルが2円でしたし,大学の助手の初任給が60円〜80円位,それで背広の三つ揃が充分出来ました。東大の学生食堂の昼定食が15銭で,25銭出せば特別にうな丼が食べられ,丸の内の映画館で1円50銭で洋画が観賞出来た時代ですから,5000円で家が一軒建てられたわけです。

この建物を父は教授室と実験室,作業室として使うことになりました。実験室には化学的研究にも使える設備が作られました。父は大学卒業(明治32年(1899年))後最初植物分類形態学的研究から入りました。この研究室の正面入口左手の記念碑の前に植えられているオカメザサの研究も初期の仕事の一つだと思いますが,その後次第に植物生理学的研究を指向するようになり明治37年(1904年)には「かび類に於けるアミド分解」の研究で生理化学への第一歩を踏み出しました。明治41年から2年ほど当時札幌にあった東北大学農学部(現北大農学部)教授をつとめたものの外国留学の念止み難く講師に降格を厭わず東京に帰ってきてしまい明治43年(1910年)4月にはドイツに向かい,ライプチヒ大学の植物生理学プェファー教授の研究室に留学しました。シダ類精子の走化性や細菌やかびの酵素の仕事をやり1912年帰国間際の3ヶ月間はフランクフルト大学のフロイント教授の下で有機化学の実験を習得し,ジヒトロヒドラスチニンの立体構造の研究をまとめました。明治45年(1912年)3月帰国後は助教授として東大の植物学教室に復帰しましたが,その後は教授として植物生理学および生理化学(plant physiological chemistry)の道を開拓することになりました。その手はじめの研究が植物フラボン体の研究であったのです。高山植物がその花弁の表層に近く特に美しいフラボノイド色素(アントシアン類)を含有しているのはそれが高山の強い紫外線を吸収しその細胞に対する障害を弱めるためだと考えたりしました。

また塩酸とマグネシウムによる還元反応でフラボノールからベンツピリリュウム環を有するアントシアニジンへの変換に着目し簡単な呈色反応を考案して数百種の植物に於けるフラボン体の分布を精査しました。丁度その当時そのような化学的な研究をやるのには植物教室の施設は貧弱だったので大正7年学士院恩賜賞を頂いたのを幸いこれを新しい研究施設に投じようと思ったのでしょう。しかし現在でも学士院賞々金は他の学術賞金に比べると高い名誉の割には少額ですが当時でも同様で,その足りない部分を見兼ねた古い友人が篤志の資金を提供して下さったものと思われます。

そのようにして出来上がったこの小さな研究室からはその後昭和初期から太平洋戦争に至る時代多くの植物生理化学の俊英を輩出することになりました。

まず当時から現在に至るまで一貫して行われた研究には青い花色の発現機構の研究があります。1913年ドイツの有名な植物有機化学者のウイルステッター教授とその女性の助手エヴェレストがヤグルマギクの青い花の色素が赤いバラの色素と同じアントシアニンであり,遊離したアントシアニンが酸性で赤,アルカリ性で青くなることから,花の細胞液のpHの変化によるものと発表しました。これは化学的な常識によるもので,父は植物学者として一般に花の細胞液性は弱酸性であることを知っていたので,青色発現は金属元素とアントシアニンの結合によると金属錯体説を提唱し米国化学会誌(1919)に発表しました。その後1931年英国のロビンソン教授夫妻がCo-pigment説と称してアントシアニンと他のフラボン体の共存による花色変異を提唱したことがありますが,父は門下の服部静夫,林孝三氏らに天然アントシアン色素の分離とそれらの化学構造を徹底的に調べさせ,それらが僅か数種のアントシアニジンに基づく配糖体であることを明らかにし,その上で終戦直後の時代に林孝三氏はヤグルマギクの花の搾汁から青い色素をそのままの形で取り出し精製し,これがアントシアニンとフラボンの鉄,マグネシウムを含む高分子錯体であることを先ず提示しました。その後この研究を引き継いだ林孝三氏門下の武田幸作氏(現東京学芸大学名誉教授)らが更に研究を続けて6分子のアントシアニンと6分子のフラボンにマグネシウムと鉄更に2原子のカルシウムを配した決定的な全体像をX線結晶解析で明らかにし,2005年8月のNature誌上に発表するに至りました。これまでに研究の発端から90年に近い歳月が経っています。

その他この研究室からは植物トリテルペン化学の初期にこれを開拓した北里善次郎氏,植物の光合成や呼吸作用の研究,チトクロームの研究を推進した田宮博,奥貫一男氏ら,その協力者薬師寺英次郎,小倉安之氏ら,蛋白質の研究に携わった田沢康夫氏,炭水化物の研究を進めた大槻虎男,村上進氏らが父が主幹として1922-1949年の間出版していた欧文植物化学雑誌Acta Phytochimicaを拠点とし海外に向けて活発な研究活動を展開しわが国の植物生理化学を築きあげました。それらの仕事の大部分はこの小さな研究室から生まれたものということができましょう。

私は少年時代度々この研究室に遊びにきて化学実験室特有の臭いを嗅ぎ実験台の上で沸騰している水浴の上のソツクスレー抽出器の中で何か植物体から成分が抽出されているのを見て強く興味をひかれたものです。それが私がだんだん化学に興味を持つようになり有機化学を主とする薬学の道に進むようになったきっかけであったと思います。今日ここからは化学実験台は取り払われ化学薬品の臭いも消えてしまいましたが新しい改修によって記念の場所は保存され新しい使命を帯びて更に有効に使用されるようになりました。このことは私にとって心から嬉しく感ずる次第です。ここに至るまで多大の努力をしてくださった関係者の方々に深く感謝申し上げる次第です。

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柴田桂太教授.教授室にて(昭和9年)

(しばた しょうじ 東京大学名誉教授)

※ 本稿は2005年5月21日柴田記念館改修披露講演会に際して行った挨拶に加筆したものです.

※ 改修前と改修後の柴田記念館の様子はこちらをごらんください.