トピック

ウィーンにイチョウを探索する

長田 敏行 

10月18日に小石川植物園後援会の25周年記念の会が開かれた折,私は丁度ウィーン滞在であった。用務は,EMBO(ヨーロッパ分子生物学機構)メンバーの会に出席することであったが,この際是非とも訪ねたい場所があった。それは,ウィーン大学植物園であった。

その理由は,小石川植物園が1996年にイチョウ精子発見百年を記念した会を催した時に遡る。100年前の偉業を辿るうちに1892年に出版された,当時の細胞学の権威であるボン大学Eduard Strasburger教授の書いた論文に出会った(1)。そこには,イチョウの花粉が飛散し雌株へ到達してからの発達の様子が図入りで描かれていた。そのイチョウの種子の供給地はウィーン大学植物園で,送り主はRichard von Wettstein教授であり,隔週に6月から9月初めまで送られたと記されていた。しかし,そこでは精子の発見には至らず,それから三年後の9月に平瀬作五郎は,小石川植物園の大イチョウで精子を発見し,翌年再確認して発表されたもので,当時の学術上の大発見であった。興味あることに松村任三教授によって私的に求められ,後に植物学教室へ寄贈されたこの論文には色鉛筆で関連箇所に傍線が引かれており,精子発見当時の関係者がそれこそ息を呑むが如くに読みふけったさまが想像できた。

用務がすんでウィーン大学植物園を訪問しようとしたが,植物園には直接には知己もいないことから,誰を訪ねたらよいのか分からなかった。些か面識のあるウィーン大学バイオセンターのHeribert Hirt教授に尋ねると,Michael Kiehn博士が適当だろうということで,同博士を訪ねた。後でいただいたアドレスによると植物学教室の助教授で,幸いなことに私の抱いていたほとんど全ての質問に答えてくださり,しかも相互の情報が相補的であったので大変有意義な訪問となった。その顛末を後援会の諸兄姉にもお知らせするのが本稿の趣旨である。

さて,ウィーン大学植物園は皇太子Eugen von Savoyenにより作られたベルベデーレ宮殿に隣接してあり,植物学教室はその中にあるので,かつての小石川植物園と植物学教室のような関係にある。配置からして,元々はベルべデーレ宮殿の一部か,関連の施設であったかと思われる。園そのものは,それほど規模は大きくないが,今年250年をその開設時の位置で祝うという伝統ある植物園であった。種子が送られたイチョウはすぐ分かったが,それは教室に隣接した植物園としては非公開部分にあり,かつて園長の宿舎のあった場所の近くということであった。当然ながらイチョウの種子が送られたのは雌株からであろうと思っていたが,驚いたことにボン大学へ送られたイチョウ種子は単純な意味での雌株ではなかった。見せていただいたのは雄株で,実はその雄株に雌株の枝を接木して得られたものであることであった。ただ,残念なことに接木された元の雌株の枝は第二次世界大戦時の戦災とその後の管理が悪くて失われていたが,それに代わる別の接木が園内に作られていた。当初の接木をしたのは初代園長Nikolaus von Jacquin教授で,はるばるオランダよりFranz Stephan皇帝(Maria Theresia女帝の配偶者)により招聘されてウィーンに来た。植物園を創設し,数次の西インド諸島への探検旅行に出て,珍奇な植物を多量に収集し,ハプスブルグの夏の離宮であるシェンブルン宮殿等に供給した。その彼が,イチョウの雄の若木に雌の枝を接木したのは1800年頃ということである。この経緯は,将に植物の雌雄性研究の歴史が潜んでいるように思われる。イチョウがケンペル(Engelbert Kaempfer)により長崎からヨーロッパに初めて持ち込まれたのは,1692年に彼が帰国して以降で,バタビア経由でオランダにもたらされたが,それは1700年頃であった(2)。たちまちヨーロッパに広がったが,オランダのユトレヒトやイギリスのキュー植物園でもいずれも成熟して花をつけたのは雄株ばかりで,このためリンネ(Carl von Linné)もその分類上の位置を決めかねていたほどである。そして,初めて雌株についた雌花を見たのは,ジュネーブのデカンドール(A. P. de Candole)であり,彼によりイチョウの雌雄性の正確な記載がされた。Nikolaus von Jacquinによりウィーンで試みられたのは,もしかしたら根にその秘密があるかもしれないということで,雌株の枝を若木の雄株に接木したところ,良く育ち,そこから多くの種子が得られ,いわゆるギンナンが得られたのである。しかも興味あることに,見せていただいた往時の写真によると,秋になって雄株の方の葉は全て落葉しているのに,根元に近い方に接木された雌株の枝はなお葉も茂り,たわわに果実を実らせていた(写真)。これは,Strasburgerが何故受精して得られたギンナンを,わざわざボンから500キロも離れたウィーンから入手する必要があったかに対する一つの答えであろう。つまり,十分に実った種子は当時容易には手に入れにくかったのであろう。この点からすると,わが平瀬作五郎は幸いであったかもしれない。

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ウィーン大学植物園の往時のイチョウ.提供: Archiv des Botanischen Institutes Wien,撮影: Emmerich Zederbauer,Michael Kiehn博士の 厚意による

図らずもこの追跡は,ヨーロッパ大陸でのイチョウの行方を教えてくれることとなった。当時ユトレヒト植物園のイチョウをはじめとして,キュー植物園にも植えられていたが,いずれも威勢良く育っていたものは少なかったことである。そして,Nikolaus von Jacquinの子で,植物園長職を継いだJoseph Franz von Jacquinは,ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の仕えたワイマール公国のCarl August大公に,ウィーンに最初に入ったのはシェンブルン宮殿であり,その次にウィーン大学植物園へ来たと述べた論文を送っているが(3),それらは何度も植え替えられて樹勢は弱っていたようである。多くはオランジェリーや温室で育てられており,そのため高価な値段がついて取引されていた。そして,詩人の興を呼び起こし,ゲーテの有名な詩(Ginkgo biloba)が書かれ,フランクフルトの銀行家の若き夫人Marianne von Willemerにイチョウの葉とともに捧げられたのは1817年のことであった(4)。

今年は国際植物学会がウィーンで開かれるので,参加される方は上記のイチョウを見てもらったらと思うが,Kiehn博士よりもたらされた若干の関連する情報を付け加える。ウィーン大学植物園では,オーストリア北東部Pannonie地域の絶滅危惧植物の保存と育成について実験的アプローチでせまっている。この地方は,温暖だが乾燥する地帯でしかも歴史的に早くから開けたので,多くの植物が絶滅に瀕している。それらの植物園内での復元と,現地の植生の回復が主要な企画であるとのことであった。また,上記ゲーテイチョウに関しては,ウィーン市の北部地下鉄一号線の終点Kargren近くの市立園芸専門学校では,イチョウの庭園を持ち市民に日を決めて公開しており,多様なイチョウ品種を展示している。

最後に,この地はメンデル(Gregor Mendel)が1851年から2年間ウィーン大学で聴講生として過ごした場所でもあり,物理学の比重が高かったものの,当時赴任したばかりのFranz Ungar教授の植物生理学の講義には熱を入れて聴いていたことが知られている。その当時は,医学生で一緒に講義を聞き,やがて植物学者となり,インスブルック大学を経て,ウィーン大学植物園長・教授となったAnton Kerner von Marilaun教授とは,当時から親交があり,例の1865年に書かれた植物雑種論文の別刷りの一部は教授に献じられていることが知られている。その義理の息子が前に触れたRichard von Wettsteinである。多少個人的な感傷を付け加えると,かつてドイツで世話になったマックスプランク生物学研究所のGerog Melchers教授の師匠であり,先代でもあるFritz von Wettstein教授はRichard von Wettsteinの子であるが,Melchers教授がチロルの小さな村Trinsに山荘を持っており,私共も一度招待されたことがあったが,なぜそこにあるのかの経緯と理由が今回の訪問でほとんど全て判明した。

参考文献
(1) Strasburger, E.: Morphologische Beiträge, Band II, Gustav-Fischer Verlag (1892)
(2) 小石川植物園後援会ニュースレター17号(1999)
(3) J. F. von Jaquin: Medicinische Jahrbücher des k. k. österreichischen Staates (1819)
(4) 小石川植物園後援会ニュースレター18号(1999)

(ながた としゆき 東京大学教授)