後援会創設25周年:巻頭随筆

思いだすこと

竹内 正幸 

緑の森に囲まれた小高い丘の上の瀟洒な建物に私の研究室があった。小石川植物園本館の向かって左側の1階である。昭和28年より私の最も働き盛りの十数年を素晴らしい環境で過すことのできたのはこの上ない幸せであった。そのうえ園の古沢潔夫助教授,柴岡弘郎助手,川上幸男技官をはじめ,事務室や園芸部の方々まで,皆親しくしてもらった。

研究室の構成は年により変動はあるが,前川文夫教授,竹内正幸助手,古谷雅樹大学院特別奨学生,院生/学生として太田修,相馬早苗,加藤博之,松島久,和田正三,調子昭一,研究生として中沢和子,鈴木敞,新関滋也,西田誠,栗田子郎といった人が出入りしていた。

エビガニ釣り

閉園後静かになったところで気分転換に2,3人でよく園内を一周した。高台から日本庭園へと下ると,草むらからバッタが飛び出すように子どもが現れて,一斉に外塀に向かって走りだす。手に短い棒を持つ者,草むらに棒を隠して走る者,皆真剣である。やがて塀にたどり着くと,高い塀にどうやってよじ登るのか,塀の上に一列に顔が並ぶ。手に持っていた棒にはスルメの足を縛った糸が付いている。小堀遠州流の日本庭園は恰好のエビガニ釣りの場である。一緒になってエビガニ釣りを楽しみたい気もしたが,正門の守衛所の壁に釣り竿が数本立てかけられていた。運悪く守衛の職員にとりあげられたものだろう。当時の悪童どもも今や初老であろう。植物園の後援会のメンバーになっているかもしれない。

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50年前の温室

オニフスベ出る

本館の中央,ガラス張りの塔を昇って屋上に出て,バレーボールほどの丸いキノコを布団叩きよろしくパンパンと叩くと胞子がパッパッと空中に舞い上がり,風に乗って飛んでいく。これだけ広い敷地に多くの植物種が育ち,環境も変化にとんでいる。ひょっとすると園内のどこかで白く丸いボールが見られるかもしれない。このオニフスベは東大応用微生物研究所の菌糸を溶かす酵素を探している友人から,なるべく大きなキノコの未熟な状態のものが欲しいと相談を受けた結果選ばれた。一寸忘れかけた頃に園内を巡回している職員が「竹内さん,こんなのが出ましたよ」とオニフスベの出現を知らせてくれた。早速応用微生物研究所に電話するとすぐ受け取りに来た。成熟度が成果を左右するからだそうだ。実験が成功したかどうかは聞いていない。また,引き続き何年も園内に現れたとも聞いていないし,ご近所の庭にオニフスベが現れたとも聞いていないが,ひょっとすると密かに生えていたのかもしれない。

オパーリン現る

昭和31年11月,突然ソ連の生物学者オパーリンが小石川植物園を訪れるという。オパーリンは『生命の起源』の著者で,生命の誕生をコロイド化学の考えを導入し研究した大家である。本館横の芝生の縁に,秋のぬけるような青空の下,大菊の展示場のよしず囲いができた。オパーリン,小倉謙園長,服部静夫教授,前川文夫教授が,かわるがわる並んだ。本館前から大銀杏を通って園内を周るという。早速カメラを携えてお供をすることにした。タラヨウの木の前で服部教授が葉を傷つけると直ちに黒くなる死環(death ring)の説明をした。オパーリンは笑いながら一枚の葉に片仮名でオパーリンと書いた。たちまち茶色から黒に字が浮き上がってきた。また,お稲荷さんの赤い鳥居を見て,公共の施設の中に宗教施設があるとはと不思議がられたがそれでも結構楽しんでおられたようである。

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菊の展示場の前で.左から小倉園長,オパーリン,服部教授.
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タラヨウの葉にサインをするオパーリン
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お稲荷さん詣で.左からオパーリン,通訳,前川教授.

日光での事件

昭和29年7月,原寛助教授の分類学実習の日,ラジオは盛んに台風の接近によって風雨が強くなると報じていたが,学生と共に国鉄で上野から日光に向かった。花石町の分園に一泊,奥日光の板屋旅館に二泊の予定である。

最初の日は大雨で,学生は園内の実験室でカエデと針葉樹の分類観察をすることになり,久保田さんと湯沢さんに園内のカエデ類および針葉樹の枝を下ろして実験室に運んでもらった。ここにはカエデの種類がよく集められている。

奥日光の一日目は快適な日和で,湯元から蓼の湖,切込湖,刈込湖まで,二日目は前白根山から金精峠へのコースで湯元に戻ることにした。

湯元から前白根山を登り始めると,少し上った所の雪渓にかなりの雪が残っていた。その雪の上に一人の男が倒れていた。学生の武部啓君が倒れている場所の近くを調べたが,持ち物はなく,睡眠薬の空き瓶の散在しているのをみつけた。それらから自殺未遂であろうと判断したが,そのまま放置しておくわけにはいかない。急遽,麓まで運ぶことにし,山岳部の金井竜二君の指導で倒木を集め,梯子のような担架を作ることになった。先生や学生が持参している手拭を供出してもらい,それらの手拭で枝を梯子状に組んで縛った。そして梯子の担架の上に倒れている男を寝かして四人で担いだ。本人の意識は戻らず,鼾をかいて寝たままである。

倉石晋君が宿の旅館に連絡のため,空身で走って降りることにした。担架には助手の私も付いて担いでいくことにし,原助教授は残りの学生と共に登山を続けた。我々は自殺未遂者を麓まで担いで運び,連絡を受けてやってきた地元の消防団員に事情を説明して引き渡した。皆疲れてはいたが,その後直ちに原先生一行のあとを追い,前白根山から五色沼を見下ろす所で原先生達に追いついた。金精峠を越えて旅館に着いた時には陽は沈み暗くなっていた。

夕食後,自殺未遂者を助けたことの善し悪しについて,議論が沸騰した。死にたい人を無理に助けるのは良くないと強硬に主張する学生,対して人の命は大切でどんな理由があっても助けなければならないとの主張,延々と真夜中まで議論が続いた。救出した本人からも警察からもその後何の音沙汰もなかったが,後日,助けるべきではなかったと主張した学生が自らの命を絶ったことを考える時,もう少し議論を深めておけばと悔やまれる。

不思議な縁

昭和41年,埼玉大学に新しく生化学科を創るから来てほしいとの意向打診があった。かつて柴田記念館で柴田先生の門下生の一人であった村上進先生(埼大名誉教授)からである。ちなみに村上先生は瀬戸内海因島の村上水軍の直系で,柴田先生の指導のもとにオリゴ糖の研究をされていた。こうして12年間の小石川植物園生活から荒川の北,浦和へと遅まきながら巣立つことになった。縁とは不思議なものである。

終わりに

小石川植物園の研究室で始めた植物組織培養は培養方法の確立を見,体細胞からの胚発生の論文を発表することができたのは忘れられない業績であった。やがて体細胞クローンの大量増殖に成功して門下生の努力にもよって,宿根性カスミソウの爆発的普及につながった。私は小石川植物園が日本における植物組織培養の発祥の地だと思っている。

(たけうち まさゆき 埼玉大学名誉教授)