小石川植物園の散歩道

長田敏行 

小石川植物園について、幕府の御薬園以降のことは完全ではないにせよ様々な解説と記録があるので、その姿についてある程度想像することは可能である。しかしながら、それ以前の植物園について書かれたものはほとんどないので、かねがねその情景は一体どのようなものであったか不思議に思っていた。ところがあるとき、小石川から直線距離で7000kmの遠くにあってその姿が垣間見えた思いがした。その遠くとはイスラエルのテルアビブ空港である。1998年夏は6週間ほどヨーロッパで過ごしたがその手始めはエルサレムの国際学会であった。予め警告されたようにイスラエルからの出国はチェックが厳しいので少なくとも4時間前には行かなければならないというので空港へは余裕を持って行った。果せるかな二人の係官がほぼ同じことを質問し、その矛盾点を探るという審問の常道ではあるが、私はその後ヨーロッパで数ヶ所訪問するのでそれについても追及するというものであった。閉口したのは訓練中とおぼしき若い担当官で、要領を得ずしかも英語のレベルも低く理解するのに相当な努力を必要とした。しかし結果的には時間が余り空港の中をウロウロすることになった。そこで偶々入ったブックスタンドに"The Bible as History (W. Keller)"というものがあったので買って暇つぶしに読み始めた。結構面白く、その後フランクフルトまで読み続けたが、その中にノアの箱舟についての関わりがあった。それは広く西アジアに広がっている話で、ギルガメッシュに載っている話とほとんど同じものであるということであった。しかも、それに相当する考古学的遺跡も発掘されており、ウルの遺跡の下にある遺跡がそれに相当すると考えられ、多分ウルム氷河後の海進に相当し、今からおよそ6000年前のことであろうということであった。証拠としては、偶々発掘されたシュメール時代の王墓の地層(約4800年前)の下にもう一層古い遺跡が発見されたが(約5000年)、その下は3m余の土器を伴わない粘土層であるのでここで人類居住の痕跡は尽きると思われた。ところが、更にその下からロクロを用いずに作られた土器が発見されたのであり、その時代はおよそ6000年前と推定された。そしてこの粘土層こそノアの洪水によりもたらされたものと推定されたのである。そこで元考古学趣味少年の念頭に彷彿と浮かんだのは、日本での縄紋海進のことであり、いわゆる有楽海のことであったが、もう一つはかつてモース(Edward S. Morse)が発掘した小石川植物園の貝塚であり、そこから有史以前の小石川植物園の姿が想像できるような気がした。

モースは、明治10年に横浜に着き、新橋への途中で盛り上がった地形に直ちに故郷の貝塚(Shell mound)を思い起こし、発掘して大森貝塚を発見することとなった。その後偶然文部省で働いていた友人を訪問したことから、東京大学の初代動物学教授への就任が決まり、大森貝塚の報告は東京大学最初の学術報告となり、その内容はNatureにも発表された。そこで、モースは発掘された土器をCode marked potteryとよび、それに縄紋式土器という訳を与えたのは、植物学教室の卒業生で後に農科大学教授となった白井光太郎(みつたろう)であり、現在縄文が広まっているが正しくは縄紋であろう。そのモースらが次に発掘したのが植物園の貝塚であり、その場所は現在の温室付近であった。従って、大森貝塚に比べたら知名度は圧倒的に低いが、小石川貝塚は由緒正しき場所である。その後、モースは後に植物学教授となる松村任三らの手助けを得て関東一円の貝塚を調査し、その出土品は太政官命令で東京大学収蔵品となった。

さて、その小石川貝塚は、1950年になって東洋大学の和島誠一教授らにより再調査され、5ヶ所の住居址を含む遺跡が同定された。古いほうからは縄紋中期の標準土器である加曾利E式や勝坂式土器が出土し、その年代はおよそ4500年前と推定されている。一方、新しいほうは堀の内式土器が伴うことから縄紋後期から晩期の遺跡と推定されている。従って、ノアの箱舟の話からすると1500年ほど下がることになるが、小石川にはその頃から人々が住み続けていたのである。大変興味あることに、中期の貝塚から採集された貝はほとんど海産性のハマグリ、シオフキ、オオノガイ、アサリ、マガキ、バイ、アカニシであった。これに対し、後期の方からは、シジミなどの淡水性の貝のみが採集された。これは何を意味するのであろうか?これは、まさに海進の最も著しいときには栃木県の藤岡まで達していたという有楽海が後退していく様子を反映しているといえよう。文京区の遺跡で、このように有楽海が退潮し、淡水化していくようすが如実に示されているのはここだけである。

小石川植物園貝塚から出土した縄文晩期の中空遮光器形土偶(高さ4.3cm, 顔部。上:前面、下:後面)。東京大学総合研究博物館収蔵。東京大学総合研究博物館・縄文時代土偶・土製品画像データベースより許可を得て転載。ここでは裏面のシールの文字の方向に配置したが、もしかすると、上下は逆かもしれない。

植物園のある高台は、特別な場所と思われる。弥生時代の遺跡こそ知られていないが、それは単に未調査のためであろう。また、場所は特定されていないが古墳もあり、その一つは隣接する最高裁書記官研修所にあったということである。従って、人々はこの場所に住み続けたのである。人が住むからには水場が必要で、それはどこに求められるのだろうか。よく知られているように遺跡のある台地と西側の園池の間には、今では水量こそ減じたがなお湧水が数ヶ所見られる。この水場に関しては興味ある話がある。かつて第5代将軍綱吉が未だ松平徳松といっていた時代の白山御殿の建設にあたり、それまでそこにあった氷川神社と白山神社を現在地に移設させたということである。このうち白山神社のほうは元々本郷にあり、秀忠の時代に小石川へ移ってきたということであるので、これは今考慮しない。ところが、もう一方の氷川神社は神社の古伝を信用すれば極めて古く孝昭天皇の時代に遡るということであるが、それは古伝という以上のものではない。ところが、この氷川神社は、武蔵国一ノ宮で大宮にある氷川神社の流れを汲んでいる。この氷川神社の分布に関しては興味ある研究があり、分布域は埼玉県から東京都にかけてであり、旧武蔵の国造の勢力範囲と重なるということである。また、その東方の千葉から茨城県にかけては香取神社が分布し、その緩衝地帯的に久伊豆神社がある。大宮の氷川神社の神主が出自で國學院大学教授の西角井正慶氏によれば、本来氷川神社は、新しい稲作を導入した集団により祭られ、そのために水源を確保する必要があって、神社は多く水神であるとのことである。小石川の氷川神社も千川の水源として祭られた水神が起源であるという推定は十分蓋然性があろう。更に、この出雲系を背景にする武蔵の国造は、大和朝廷の権威も取り入れていったことが窺えるのは、日本書紀の第27代安閑天皇の項に見られる上毛野氏との抗争で、結局朝廷の権力も取り入れながら武蔵国の開拓に従った姿で、この集団は旧荒川沿いに広がり、その土地の神聖な場所に築かれたのが氷川神社であろうということである。そのような場所にはしばしば古墳が築かれ、それがやがて神社となっていったのであろう。

有史前の小石川に思いを寄せたが、このような背景を想像して、小石川植物園を散策するのも一興ではないかと思う。2002年の冒頭に佐々木総長が煙山文京区長との新春座談会で述べられた小石川に蛍をという発想は、このような背景を考えると、私には必ずしも荒唐無稽とは思われなかった。

(ながたとしゆき 東大・院・理・教授)