日光植物園100周年に寄せて

日光分園の思い出

村上哲明 

私は大学院の博士課程を修了してまもなくの1987年8月1日に日光分園の助手として採用され、1994年3月いっぱいまで在籍させていただいた。また、1994年4月からは小石川本園の助手に配置替えになった。しかし、これは同僚の助手の長谷部光泰君がアメリカに留学していた時期で、理学部附属植物園全体で助手が一人しかいなかったからで、実質的には日光分園の仕事も兼任していた。私が京都大学に異動した1996年7月まで私の図書なども大半は日光分園に置いてあった。したがって、助手として東京大学理学部附属植物園に在籍した9年間、日光分園の事務の柴田さん、技官の根本さん、高橋さん、それに斉藤さん、そしてパートの皆さんには本当にお世話になった。日光分園は、四季折々にそれは美しい場所だった。季節ごとに思い出を綴ってみたいと思う。

私が日光分園に赴任したのは、まさに夏盛りの時期だった。とはいえ、日光では最高気温が30度を超える日がなくて、クーラーなどは全く不要の爽やかな高原気候だった。しかし、雷雨は毎日のようにやってきた。特に朝、からっと晴れていると、早ければ昼過ぎには1回目の雷雨がやってきたし、夕方に2回目の雷雨が来ることも珍しくなかった。「山沿いではところによって雷雨」という言葉を以前から天気予報では良く聞いていたが、これは日光などでは雨という意味だったのだと初めて認識した次第である。そして、私が赴任して2週間もしないうちに日光分園の樹に落雷があった。ちょうど雷が落ちたときに、私は庁舎にいたのだが、かなり大きな衝撃だった。距離にして100mも離れていなかっただろうから当然のことである。落雷の現場を見に行ったら、大木が真二つに裂けていた。テレビで落雷シーン(合成したもの)を見たことは何度もあるが、本当にあのようになるのだと感心した記憶がある。夏の間の日光分園は、ロックガーデンを中心に高山植物の花が咲き、とてもきれいだった。また、研究室の前の芝生にはトキワナズナが全面に白くて小さな花を咲かせ、研究室の窓からでも十分楽しめた。一方、閉口させられるものとしては、ウシアブがいた。研究室の窓を開けていると、ウシアブが次々と入ってきて、これにかまれると長らくかゆみが引かなかった。私は部屋に入ってきたウシアブをウチワなどでたたき殺すと、ときどき部屋に入ってくるオニヤンマに餌として与えて「恨み」を晴らしていた(笑)。

夏の間の重要なイベントとしては、理学部植物学科の野外実習Iがあった。これは必修科目なので、3回生の学生達がそろって日光分園にやってくる。当時、日光分園の講師だった矢原さんは、山に学生を連れて行くのが好きで、白根山、女峰山、鳴虫山と3日連続で、それなりにしんどい山登りをさせていた。矢原さんとしては山を登りながらゆっくり道沿いに生えている植物の説明をしたいのであるが、学生の中には歩くのが速い連中もいて、さっさと先に行ってしまう。私は先行部隊についていくようにしていたが、ある年、女峰山に登ったときに、先行部隊と共に私は道に迷ってしまい、運の悪いことに激しい雷雨にも遭遇して青くなったことがあった。山の雷は恐ろしく、あたりは大雨で真っ暗になり、まさに足下で雷鳴がするという状態である。登山道からは少しはずれてしまっていたものの、幸い方向は間違っていなかったらしくて、無事下山することはできた。しかし、私は実習で丸々一日行程の登山に学生を3日連続で連れて行くのにすっかり懲りてしまっていたので、私が実習をまかされるようになるや、登山の時間を大幅に減らして、室内で採集して来た植物の名前をゆっくり調べるような内容に実習を変更してしまった。

さて、短い日光の夏が終わると(9月に入るともう肌寒くなってくる)、日光が最も賑わう秋がやってくる。高度の高い白根山、中禅寺湖のあたりから紅葉が始まって、10月半ば頃には「いろは坂」周辺がとてもきれいになる。いろは坂の紅葉は、それはそれは美しくて、なるほどこれなら渋滞で車が動かなくても十分楽しめるので、大渋滞も承知で大勢の人がやってくるのだなと納得したりもしていた。土曜日曜は植物園周辺の道路も自動車で埋まって全く身動きがとれなくなる。観光客にとっては一日だけのことかも知れないが、私達にとっては生活道路でもあるので大変である。日光駅まで普段なら車で10分ほどで行けるのに、1時間以上かかったりする。柴田さんから抜け道を教わったりしながら、紅葉シーズンが過ぎるのを待っていたような気がする。日光のあたりは「いろは坂」に限らず、どこもかしこも紅葉がきれいだった。もちろん日光分園の中もきれいである。植物園は比較的高度が低いので11月半ばくらいまで紅葉を楽しめることが多かったと記憶している。

美しい秋が終わると、きびしくて長い日光の冬がやってくる。日光分園も12月から4月半ばまでは閉園されて静かである。雪景色になった分園は普段とはちがった静かなたたずまいで、しっかりした防寒具とスノーブーツが必須であるものの、散歩をするには悪くなかった。フェンスを飛び越えて進入した鹿の親子などにも時々出会ったりもした。日光では最低気温は平気でマイナス8度くらいにはなるし、最高気温が0度を超えないいわゆる真冬日というのが何日も続いたりする。研究室には強力なストーブがあるので、まだ良いのであるが、すきま風だらけの庁舎は本当に寒かった。当時、頻繁に日光に滞在していた大学院生の酒井聡樹君や牧雅之君とは、夜には毎日のように鍋を作って暖まっていた。さらに普通の布団では体との間に隙間ができて寒いので、冬山用の寝袋を買ってきてそれに入って寝たりもした。分園のある日光市内では、冬にもあまり雪は降らないのだが(一応、太平洋側気候である)、それでも降り出したらあっという間に数十センチ積もったりする。また、雪が降らなくても、朝夜は道路が凍結していることも多い。私は、当時使っていた軽自動車に4輪ともスパイクタイヤ(現在は使用が禁止されている)をつけていた。そして、普通のタイヤも4輪分車に積んであって、セミナーなどで東京に出るときには途中のインターチェンジで毎回タイヤを交換していた。日光に帰ってくるときは、またスパイクタイヤに戻すことになる。おかげでタイヤ交換はプロの手際よさになった。一度、面倒だからといって駆動輪の前輪にだけスパイクタイヤをつけたことがあった。そうしたら、凍結した坂で後輪が滑って見事にスピンした。幸い、他に車が一台もいない深夜だったので、車さえも無傷ではあったが、それ以降、面倒がらずに日光では四輪ともスパイクタイヤをつけていた。日光は夏が天国な分だけ、冬はつらいのだと思った。

長くてきびしい冬が終わると、秋に負けずに美しくて楽しい春がやってくる。まさに北国の春で、日光では4月の終わり頃から、ウメ、サクラ、ツツジ、シャクナゲなど木々の花がほとんど一斉に咲く。その先陣を務めるアカヤシオのピンクの花が咲き始めると、なんだかわくわくしてきた。時をほとんど同じくして、冬の間閉園していた日光分園も開園し、一般のお客さんもたくさん入ってきて賑やかになる。そして、ゴールデンウィークのころは、アズマシャクナゲが満開になる。アズマシャクナゲは、分園の門を入ってすぐの道沿いに多数植えられていた。花をたくさんつける年とそうでない年で花の量にはかなり大きな差があった。いずれにしても日本人好みの上品なうすピンク色の花で、私は分園に咲く花では、これが一番好きだった。分園には、この他にもシロヤシオやトウゴクミツバツツジ、ベニサラサドウダンなどツツジ類が特に多くて、春の分園は花だらけという感じだった。私は昼食後にはいつも園内を一周散歩することにしていた。マルハナバチなども多数飛んでいて、一緒に春を喜んでいるようであった。

そうこうしていると、あっという間に1年が過ぎた。当時、私は東京、つくば(分子系統学の研究を始めるに当たって、農水省の研究所に解析技術を習うために足繁く通っていた)ともしょっちゅう行き来していたので、じっくり日光に腰を落ち着けている感じではなかったが、それでも分園のスタッフだっただけに季節を通じて日光にそれなりの期間滞在していた。それぞれの季節ごとに違った美しさの見られる日光および日光分園をじゅうぶんに堪能できたと思っている。私の専門は熱帯性のシダ植物の分類なので、たまたま日光分園の助手にならせていただくことがなければ、北国(?)・日光の自然をこれほど堪能することはあり得なかったことだろう。京都大学に移って、日光分園を訪れる機会は激減してしまったが、多少無理をしてでもまた機会を作って訪れたいと考えている。

(むらかみのりあき 京大・院・理・助教授)