日光植物園100周年に寄せて

日光植物園の四季と「花の性」の思い出

矢原徹一 

凍ってはいけないものは、冷蔵庫に入れる−日光で暮らす人にとっては常識ですが、九州育ちの私にとっては、新鮮な経験でした。日光の4年間を振りかると、かくも厳しい寒さとともに、実験室づくりの苦労がまず思い出されます。日光分園に6月に着任し、チロルハッット風の木造の建物で、DNAやタンパク質を扱う実験を始めるために、秋までにいくつかの実験機器を設置しました。やがて冬を迎え、室内で水が凍結すると知り、あわてて電気毛布を買いに出かけました。タンクが凍らないように、純水製造装置に電気毛布をかけたのです。二年目の冬には、フリーザーやインキュベータなどの熱源が増え、室温が零下となることはなくなりましたが、最初の冬の苦労は、今でも鮮明に思い出されます。

冬の園内では、土が凍結し、霜柱がよく立ちます。3月に、寒さが緩み始めてから園内を歩くと、霜柱で持ち上げられた土に足をとられます。開園までに園内を整備される技官の方々のご苦労を思いながら、まだ寒い園内をよく散歩したものでした。日光分園で春を最初に告げるのは、水が引いたアヤメ池に咲く、ザゼンソウの花です。やがてミズバショウの花が咲きはじめると、まだ空気は冷たくても、陽射しがずっとやわらかくなります。厳しい寒さのあとの春の喜びは、格別のものでした。

日光分園に咲く早春の花の一つに、コセリバオウレンがあります。ロックガーデンのそばの針葉樹林の下に、白い花が群れて咲きます。まだ肌寒く、虫もあまり見かけないころに咲くので、自家受精をするのだろうと思っていたところ、両性株のほかに雌株があることに気付きました。そこで、少し時間をかけて観察したところ、越冬を終えたハナバチ(種名不祥)がかなり頻繁に訪花し、花粉を運んでいることがわかりました。両性株と雌株が維持される仕組みを調べてみたいと思いながら、とうとう研究しないままに、日光分園をはなれてしまいました。日光での心残りの一つです。

開園後しばらくすると、門から庁舎に向う道に沿って、アズマシャクナゲの花が咲き誇ります。日光植物園を象徴する花の一つと言えるでしょう。このアズマシャクナゲの花には、コマルハナバチの女王が頻繁に訪れます。アズマシャクナゲのやくは裂開せず、上部の穴から花粉が出ます。コマルハナバチがこの穴にふれると、粘着物質で納豆のように連なった花粉がハチの体に付着し、ハチは花粉まみれになります。この様子が面白くて、何枚も写真をとりました。図の写真は、故原襄先生が教養学部を退官されるときに、パネルに引き延ばして記念品としてお贈りしたので、とくに思い出に残っています。

小石川植物園助手時代には、分子系統学の研究を軌道に乗せることに努力しましたが、日光植物園では、本園とは違った研究の方向をめざして、植物の自家受精や性表現の進化について、研究を始めました。大学院生として、牧雅之君と増田理子さんが、この方向での研究に取り組んでくれました。とくに増田理子さんは、日光植物園内に自生しているキツリフネを使って、閉鎖花の進化についてとてもすばらしい研究をしてくれました。その成果については、拙著『花の性』に、日光植物園の様子とともに、紹介しました。日光植物園の存在を国内外にアピールするうえで、少しはお役にたてたかもしれません。

日光植物園には、残念ながらわずか4年弱(1987年6月〜1991年3月)しか勤めませんでした。教養学部(駒場)に助教授として赴任して以後も、日光分園への思いは断ちがたく、教養学部で「野外生物学」という実習つきの講義を新たに企画し、東大の一年生を連れて、日光植物園に毎年出かけました。そのときの学生はいま、植物学を含む、さまざまな分野で活躍しています。彼ら、彼女らにとって、日光植物園に泊まり込んで実習をした思い出は、格別のものだったようです。

教養学部では、大学院生の大橋一晴君に、日光のフジアザミを材料にした繁殖生態学の研究テーマを出しました。その後大橋君は、日光をフィールドにした研究で国際誌にいくつも論文を書き、現在トロント大学に留学して、国際的に活躍しています。

このように、日光植物園は私が「花の性」に関するライフワークの芽を育くんだ場所であり、はじめて大学院生を持ち、後輩を育てた場所です。いまの私があるのも、日光植物園で講師をつとめることができたからだと思います。在任中に、若い分園主任を暖かく迎え、日光植物園の発展のために労苦をともにしてくださった職員の方々に、あらためてお礼を申し上げるとともに、100周年を迎えた日光植物園が21世紀を通じてさらに発展を続けることを、心から祈念いたします。

(やはらてつかず 九州大・理・教授)