日光植物園100周年に寄せて

私にとっての日光分園の思い出

大場秀章 

日光分園に赴任する以前の私の日光の記憶といえば、分類実習とその夜の学生との本物のシンポジウムならぬ酒付きの雑談などであった。つまり当時、研究材料の栽培や実習以外に訪れる機会はあまりなかったのである。

それは大学院重点化に先立つことであったが、日光分園を研究教育の場とする方針が決められ、講師に昇任したばかりの私は日光に行くことになった。日光分園は教官としてはこれまで助手を当てていたので、これは教育研究の根幹に関わる大きな方針の転換であった。

東大に来る前に東北大学の植物園にも勤務したことがあるので、日光は小石川に次いで私にとって3番目の植物園となった。面積に比べ驚くべき小人数の職員数であったが、皆熱心であった。冬は閉園になるが、その間には植物に付ける説明版などを手作りしていた。5月の連休を中心に多くの入園者があったが、入園者の半数は東照宮その他に出かける人が車の駐車に利用するのが実態であった。残念ながらせっかくの入園者を魅了することができない状況だったのである。

研究面では教官はひとりではあったが、大学院生が常駐し、卒論の学生も滞在して、それが私自身の研究への励みにもなった。

東京と違い夜は時間があった。どうしたら魅力ある植物園にしえるのか考えることもあった。社会に開かれた施設として十分にその機能をはたしているのか、またそのためのストラクチャーは体をなしているのか。また、当時の状況下では大学の施設として教育研究面での存在意義にも自問せずにはいられなかったことを思い出す。

幸いなことに当時は園長を始め、事務主任も分園の運営にはたいへん心を砕いてくださった。私の在任中にも何度もわざわざ日光まで足を運んでくださった。また、植物園の運営・業務に係わる会議には分園も一員として加わることになった。とにかく隔離の感がなくなったのである。こうした配慮の嬉しさは隔離された側の立場に立たない限り判らないことだと思う。日光での滞在は2年で終わり、1980年に総合研究資料館に移動することになった。資料館は学内共同教育研究施設であったが、ここも多くの問題を抱えていた。幸い1996年には総合研究博物館へと改組がなり、研究教育と社会への公開を行う施設としての機能を充実させることができた。この改組では日光で考えたことの多くを現実のものとすることができた。

私ごとを連ね紙面を汚してしまったが、日光分園が創立から100年という慶年を迎えたことに心からお喜び申し上げたい。21世紀の持続的共生社会を迎え、植物園の教育研究に果たす役割は層倍のものとなっているはずである。この面での東京大学における貢献のよき実践の場としても今後の発展を期待したい。

(おおばひであき 東大総合研究博物館・教授)