日光植物園は創立100年を迎える

長田敏行 

東京大学理学系研究科附属植物園日光分園(通称に従い日光植物園と呼ぶ)の魅力とは何であろうか。それは市街地に近いにもかかわらず、自然の状態が良く保存されていることであろう。様々な種類のシャクナゲの咲く時期の華麗さに目をみはり、日本各地に産するほぼ全てを網羅するカエデの紅葉に目を奪われ、それを求めて多くの人が植物園に集まる。最近では、本園にやや遅れて花をつけるハンカチノキも新たな注目の的である。その他、一昨年は夏の夕刻草むらに光るクサボタルにも感動したばかりであり、その魅力は尽きない。故前川文夫教授は、その著書「日本固有の植物」(玉川選書)の中で中部日本の山地の植生を見るにはもっともふさわしいところと述べているが、その前川教授は1952年に園内の朝の散歩に際してハクウンランを見つけられている。これは自然条件でもめったにお目に掛れない植物である。

その日光植物園は今年で開設されてから100年を迎える。即ち、創設は1902年11月5日であるが、その場所は現在地と異なり、東照宮の東側にあたる仏岩であり、その面積も現在の十分の一にも満たない地籍(8,560m2)である。先年、日光植物園の柴田さんの案内でその近くを訪れたが、木が生い茂り当時の面影は見られなかった。それにもまして、近くを流れる稲荷川は小川であるが、山地の常としていったん雨が降れば直ちに増水して被害を蒙るということは容易に理解できた。

それでは、その後現在地に移転するにしても、何故この地日光に植物園が設けられたのであろうか。五百城文哉(いおきぶんさい)(1863-1906)の軌跡を追うことがその何故に答えるヒントを与える。日光植物園には、五百城の筆になる「日本高山植物写生図」がある。2000年には五百城を記念する展覧会「五百城文哉: 旅路の心・山中の夢」が水戸市立美術館と日光市小杉放庵美術館で開かれたが、いわば忘れられた画家であったにもかかわらず、その弟子から出て著名人となった小杉放庵(注)が終生師として称えたことにより、また彼の作品が外国に相当数存在し、近年評価が高くなっていることから現在改めて注目を集めていることにより個展が催されたものである。但し、植物園にある五百城の画集は、残念なことに研究室の火災に際して周辺が焦げてしまったが、幸い中身の植物画のほうは良く保存されている。

図1. ニョホウチドリ
五百城文哉画:日本高山植物写生図から転載
五百城は、その晩年、といっても病を得て夭折であったが、日光に落ち着いて当時日本を訪れる外国人の一割は訪れていたというこの場所にあって、絵を描き外国人に譲っていたが、その傍ら山草の採集、栽培、観察に精を出した。その同好の士の中には弁護士であり、東京市議会議員でもあった城 数馬がいる。二人は、日光の女峰山でニョホウチドリを発見し、その学名は牧野富太郎によって Orchis Joo-Iokiana Makinoと名づけられた(図1)。また、1901年には八ヶ岳へ探索に出かけた城は、生きた植物を持ち帰り、日光の五百城の下で栽培してもらっているが、この山行でウルップソウを始めとして多くの植物を発見し、その後この山域に多くの人々が入った。五百城が居を構えていた日光市萩垣面には、日本で最初のロックガーデンも設置され、多くの山草が栽培されていたが、その場所は最初の植物園の地籍仏岩とは、稲荷川を挟んでいるがそう遠くはない。また、五百城と城は、裁判官であった木下友三郎と山草陳列会を本郷団子坂の植木屋「薫風園」で行なったが、そこには松平康民、加藤泰秋、久留島通簡、青木信光(いずれも旧藩主の家系)も参加していた。この催しで、山草趣味は最高潮に達し大変な評判を得たことは、植物学雑誌にもその記事があることからうかがえる。この前後、小島烏水、志村烏嶺、前田曙山らは、中部辺の高山の探検旅行にこぞって出かけているが、特記すべきはいずれも高山植物にも目を注いでいることである。ちなみに高山植物なる名前を最初に使ったのは、宮部金吾博士で1899年の札幌での講演会の時のことである。そして、その情勢を背景に当時の植物園長松村任三は、総長山川健次郎の命を受け、日光植物園の開設に取り掛かるのであるが、そこには五百城、城が協力した。さらに東照宮宮司中山信徴(のぶあき)も協力し、東照宮の敷地8,560 m2の寄付を受けて植物園の開設となった。ここで指摘されているのは、水戸徳川家の人脈で松村、中山、五百城はいずれも水戸に関わる人々であり、初代の主任となった望月直義も水戸の出身であった。中山家は代々水戸藩の付家老の家柄であり、松村はその家老職の家の出である。
図2. トガクシショウマ
(→解説

ここで、もう一つの動きを付け加えよう。私は、武田久吉著「原色日本高山植物図鑑」(保育社)を学部学生の頃より愛用していたが、その末尾の記事までは目を通していなかった。数年前、ふとした機会にその記事を読むと、いわば高山植物事始について書かれていることに気がついた。当時東京府尋常中学校(現都立日比谷高校)生徒であった武田は、1898-1903年にかけてほとんど毎夏を日光で過ごし、女峰山、男体山への植物探索に費やしている。日光の他、八ヶ岳、白馬岳、戸隠山、妙高、尾瀬へも植物探索に出かけている。ちなみに、武田は、英国公使アーネスト・サトウを父とし、彼らが始めた組織(日本博物同志会)がやがて日本山岳会と発展していって、後年彼はその会長も勤めている。後に、英国に留学し、京都大学、北海道大学等で教鞭を取った。これらの一連の活動は、何故日光に植物園かの問いを解くもう一つの鍵であろう。実際、メンバーではないが、彼も牧野と共に団子坂の山草陳列会に積極的に参加している。十代の武田が植物探索に熱を上げたのは良く理解できるし、後に教授となる早田文蔵もその頃学部学生として各地の探索に出かけており、国内の植物探索の高潮がここでもうかがえる。また、上記志村・前田著の「やま」(1907年刊、橋南社)が手元にあるが、1904年の白馬岳行きは、近頃のガイドブックと異なり、まさに植物ガイドブックといってよい内容であり、実際ヒメウメバチソウ、シロウマオウギを発見しており、トガクシショウマ(図2)も山地にかかって直ぐに出会った植物がそうであったと述べている。これらの高山植物は、低地では成育に適さず、日光においてのみ栽培できた事は、高地性の植物園の存在意義を示すもので、こんにちヒマラヤ山系の調査により採集された植物のいくつかが栽培されていることも同様な理由による。

日光植物園は、稲荷川の氾濫と、仏岩に地籍の拡大が求め得ないことから、1909年現地籍の蓮華石にあった松平子爵邸を、国有地の敷地換え等の手段で入手し、農科大学助教授草野俊助のデザインで植物園の設計を進め、1911年11月に移転したが、その時点での面積は31,683 m2であった。その後徐々に購入や移管等で敷地を増やし、1914年までには71,280 m2となった。その頃までには実験室も設置され、現在でも毎年植物学教室の学生が参加して野外実習で日光へ行くスタイルはこの頃確立された。ちなみに、1928-1930年に学部学生として在籍し、後に東京教育大学教授となり、日本植物学会長も務めた林 孝三教授の回顧録を見ると、当時植物園のほか奥日光の湯元にも定宿があったと記されている。

図3. コウシンソウ
(→解説

ところで、武田の図鑑の記事には、牧野がコウシンソウ(図3)の花式図を描くために女峰山へ蕾を採集に行くというので、これ幸いと城らと同行したという記述がある。その帰途七瀑観瀑行の途中の当時皇太子であった大正天皇一行に出会っている。そこに「殿下から御声が掛って、雲の湧かぬ内に瀑を見よとの有難い御諚。そこで早速一礼に及んでから瀑を眺めた上で前進を続けた」とある。この大正天皇は、日光植物園にとって重要な関わりを持つ。隣接地に田母沢御用邸が設けられたからである。現在日光植物園の中を歩くと、奥の三分の一ほどの地籍に丈夫な塀があるのに気づくが、これがかつての御用邸の名残であり、よく見ると奥の方には日本庭園があり、風情のある石灯篭がある。大正天皇はこの地を愛され、健康上の理由もあり頻繁に訪れている。今は撤去された鹿門を通り、現在大正天皇記念碑があるあたりでしばしば休息され、帽子をかけたクリの木がある。ある時読んでいた本にこの頃に関わりのある記述に出会った。1915年には京都で大正天皇の即位大典があったが、その出席者に供するザリガニを北海道にて2,000匹以上集め、田母沢御用邸近くの大谷川に籠を設けて一時的に保管し、やがて京都へ発送したというものであった。大正天皇ゆかりの地は、1927年に当時の中村清二学部長以下の基金により大正天皇御由緒地の碑が建てられた(図4)。

図4. 大正天皇記念碑
(→解説

その後もこの関係は続いたが、戦時中今上天皇は、皇太子として田母沢御用邸に滞在されたので、日光植物園をしばしば訪れられ、実験室で顕微鏡ものぞかれたとのことである。最近の行幸の際もこの当時のことにふれられ、最初にスキーを行ったのは大正天皇御由緒地のスロープであり、園地の川で魚を手掴みにされたと往時を偲ばれ、懐かしそうに語られた。そして、敗戦と共に田母沢御用邸は廃止となり、一旦は当時の大蔵省関東財務局の管理に入り、1950年に建物を除く敷地の大部分が植物園の帰属となり、現在の面積104,490 m2となった。 

図5. ロックガーデンと庁舎
(→解説

日光植物園の創設の頃に力点をおいて述べてきたが、改めて日光植物園の意義を考えてみよう。小石川植物園では栽培できない高地性植物の育成は当初よりの意図であるが、植物研究の領域がヒマラヤから中国の山地にも広がっている今日その地の利を占めた意義は変わらない。山地でも自然が失われつつある今日この地は貴重な場所であり、これを守ると共に是非積極的に活用したいと思うのは、私だけではないことを知っているので、それらの人々になり替わり本稿を認めた

(ながたとしゆき 東京大・院・理・教授)




(注): 小杉放庵(別号未醒)(1881‐1964)は、東京大学にも縁があり、安田講堂の障壁画は小杉の描くものである。