メンデリアヌム再々訪問記

長田敏行 

俚諺に二度あることは三度あるといいますが、私はメンデリアヌム訪問に関してまさにそのような経験をすることとなりました。先々号で紹介したようにメンデリアヌムを二年連続して訪問し、次の訪問までは暫くは間があろうと思っていましたが、本年も訪問することになったからです。今年7月には第17回国際植物成長物質会議がブルノでありましたが、既にこの場所は二度も訪れているので当初は申し込みを致しませんでした。ところがヨーロッパの友人より来て話さないかという誘いがあり、それならばと応諾しました。この間に小石川植物園よりブルノへ里帰りしたメンデルブドウはある範囲で知られるようになり、今回の訪問の直前に、駐チェコ共和国日本大使の石田寛人氏よりこれに関連して、プラハ経由でブルノへ行くなら、プラハを案内しましょうというご親切なお誘いを受けました。一寸びっくりしましたが、石田大使の前職が科学技術庁事務次官で、科学協力等でお手伝いできればというお話を聞いて納得致しました。また、先々号の拙稿をご覧くださってメンデルの旧跡を訪ねられる方が複数おられることを知ったことは喜ばしいことでした。

この間にメンデル法則再発見の過程についていささか詳しく知ることになりましたが、余り広まっていない話も多いので、これについてまとめてメンデリアヌム訪問記の締めくくりにしたいと思います。

メンデルの遺伝法則再発見のドラマは、1900年3月26日にフランス科学アカデミーの例会で、植物学者ボニエ(Gaston Bonnier)がアムステルダム大学のドフリース(Hugo de Vries)より届けられた最近の研究成果を読み上げたことから始まりました。ドフリースは、クワガタソウ属(Veronica)やマツヨイグサ属(Oenothera)植物間で交配した子孫を解析したところ、花色が三対一に分離して現れたというものでした。その要旨は、アカデミー報告(Comptes Rendus)の3月号に掲載されましたので、ドフリースはこの別刷りを知己の間に発送し、それは四月中に届き、その中にはコレンス(Carl Correns)やチェルマック(Erich von Tschermak-Seysenegg)がおりました。当時チュービンゲンにいたコレンスは、4月21日に別刷りを受け取ったのですが、それを読んで大変驚きました。というのはコレンスは、元々キセニアに興味を持って研究を行なっていて、ガーデンピー(Pisum vulgare)などでの実験で、雑種第一代の形質は次の代で分離するという結論に達しておりましたが、文献を調べてみると、30年以上も前にその当時は無名のメンデル(Gregor Mendel)という人が、全く同様な、しかもより網羅的な結果を発表していることに気付いていたからです。従って、コレンスは多分発表には値しないと考えていたのですが、ドフリースの報告に驚いて彼は直ちにそれまでの結果をまとめて、翌22日にはドイツ植物学会報告(Berichte der Deutschen Botanischen Gesellschaft)へ投稿し、24日には届いて、直ちに受理されましたが、そのタイトルは「後代の形質の挙動に関するメンデルの法則」(原題は、G. Mendel's Regel über das Verhalten der Nachkommenschaft)というものです。ここで初めて「メンデルの遺伝法則」という名前が登場しました。コレンスはこのメンデルの発見した法則を世間に知らしめる必要があると考えたのが論文発表の主要な動機でした。

一方、ウィーンのチェルマックは、学位取得後の遍歴時代にベルギーのゲント植物園に滞在して、かねがね興味を持ったいたキセニアの研究から、エンドウを用いて実験を行ない、形質の分離に気付いていました。彼は、4月初旬にドフリースの論文を見て、既に講師資格論文(いわゆるHabilitationの論文)としてウィーン農科大学へ提出中であった論文の内容を、大学の了解を得て、オーストリア農業研究雑誌(Zeitschrift für das landwirtschaftliche Versuchsw Österreich)へ送りました。論文としての登場は6月となり、活字となったのは最後でした。前後して三つの論文が登場した1900年は、メンデルの法則再発見の年であり、2000年はそれから100年になるのでメンデルの故地ブルノで再発見100年の記念の催しがもたれたのでした。

既に述べたように三人は、年齢的にも差があり、動機も異なり、それぞれ個性があります。多分時間的に最も早くメンデルの法則再発見に至ったのは、ドフリースですが、発表の仕方が故意ではないにせよ、やや不自然でした。オランダの研究者は、彼がメンデルの発表に気付いたのは、発表の直前であったという解釈をしていますが、それほど明確ではありません。これに対し、普遍法則性という認識を最も早く持ったのはコレンスということになりましょう。チェルマックは、これら二人に比べると年も若いがやや発表の内容が粗雑であるとは後の批評家の指摘にあるとおりですが、ここでそれぞれのスケッチを試みることに致します。

コレンスは、若年の結核が原因で健康には優れませんでしたが、メンデルと交信があったことでも知られるネーゲリ(Carl von Nägeli)の下で学び、メンデル法則再発見後も、早くから核外の遺伝因子に気付いて非メンデル性遺伝法則である母性遺伝を発見し、一貫して遺伝学の発展に貢献しました。また、メンデルとネーゲリの文献のやり取りにも早くから注目し、コウゾリナ属の一種コウリンタンポポ(Hieracium)で、メンデル法則が成立しない理由は、アポミキシスにあることを明らかにしたのも彼です。私は、このコレンスとは奇しくも間接的な関わりがあります。というのは、私が1974年のフンボルト留学生での滞在以来親しく付き合って頂いていたメルヒャース教授(G. Melchers)は、マックスプランク生物学研究所の教授でしたが、このマックスプランク生物学研究所は、かつてベルリン−ダーレムにあったカイザーウィルヘルム生物学研究所の後身で、第二次世界大戦中に南西ドイツへ移転し、戦後にこのような名前になったもので、その教授職はコレンスからして三代目でした。従って、様々の関わりがあり、例えば、メンデルの校正の筆の入った1865年の別刷りは、ネーゲリ経由でチュービンゲンにあります。また、遺伝学の正統を自他ともに許していたメルヒャースは、特に旧ソ連のルイセンコ一派の跋扈した時代には東側のいわゆる正統的遺伝学者を間接的ではありますが大いに援助しました。この辺の事情を、彼は何故か私には詳しく説明して下さいました。また、それだけでなく、私自身1974−5年にチュービンゲンに滞在した折に使用した成長を測定する水平顕微鏡(Cathethometer)はコレンス自身の利用したもので、屋根裏部屋から取り出してきて研究所のメカニカルマイスターのヴォルフ氏に依頼して一種の細胞電気泳動装置に作り替えたのでした。用いたレンズには、いずれもKWI B IIという刻印がありましたが、KWI BIIの意味は、上記カイザーウィルヘルム生物学研究所第二部門(Kaiser-Wilhelm-Institut für Biologie II)という意味で、遺伝学の研究所であったコレンスの研究所の略号で備品番号です。ちなみにBIは、シュぺーマン(H. Spemann)の研究所でした。帰国してこの話を某氏にすると、記念に頂いてきたら良かったのにともいわれたが、当時は全くそういったことに関心がありませんでした。

それでは、メンデルの法則に最初に到達したはずのドフリースは、なぜメンデルの論文に就いて触れなかったのでしょうか。知らなかったのではないことは、フランスアカデミーで紹介される直前にドイツ植物学会誌へ投稿した論文にはメンデルの引用があるから明らかです。この説明は次のようなものであろうとするのがある程度コンセンサスの得られた考えです。即ち、ドフリースは、ダーウィン(Charles Darwin)のパンゲネシスに熱中していたので、それを証明するべく研究を進めていました。この目的のために、植物の形質発現の研修のために当時最も著名な植物生理学者であったザックス(Julius von Sachs)のところに滞在し、形質発現が統計的分布を示すことを知りました。そこで、彼はこの研究の一端として交配した植物の花色の変化を追跡するうち、メンデルの法則の再発見に遭遇したのでしょう。従って、発見された遺伝法則の重要性にはそれほど気を留めていなかったとすれば一連の行動は理解できます。もちろん、フランスアカデミーでの報告は、要旨をそこで読んでもらうわけですから、詳細には立ち入らなかったということもメンデルを引用しなかったことの要因でしょう。今日時々耳にする先取権争いとは異なるようです。ただ奇妙なのは、メンデルの法則が発見されて50年の1915年に、メンデルの記念碑が建てられるのですが、そこへの醵金も拒否しているのです。このドフリースと日本メンデル協会を作った篠遠喜人教授とは親交があったので、もしかしたらそこからドフリースの実像に迫ることが出来るかもしれないと思いました。ところが、前々回ふれたメンデル法則再発見100年の会議中に、アムステルダム大学の若い大学院生からドフリースと篠遠教授とは文通があったはずだが日本ではそれを何処で見ることが出来るかと尋ねられました。帰国後尋ねてみると全て処分されてしまったらしいという話でしたので、日本からドフリースへの手掛かりは途絶えておりました。

チェルマックが、他の二人と明らかに異なるのは、初めから応用志向であったことです。大学でも応用植物学を学び、法則再発見とともに、自身はウィーン農科大学で彼のために開設された育種学講座の担当でしたが、ブルノの近くにメンデル研究所を作り、世界最初の育種農場を作って、メンデル遺伝学に基づく品種改良をコムギ、オオムギ、ライムギで行ない、その後の生涯をこの領域の発展に捧げました。

さて、最後にメンデル再発見の論文が二つまで登場した、ドイツ植物学会誌は、その後名前をBotancia Actaと変えたのですが、奇しくもこの編集には1991年より田沢教授のあとを受けて日本からの編集者として参加しています。ところが、Botanica Actaは、1999年にオランダのオランダ王国植物学会誌(Acta Bot. Neerlandica)と合併してPlant Biologyとなりました。この際、基礎生物学研究所教授(元小石川植物園助手)長谷部光泰氏にも編集委員に加わっていただきました。偶々、昨年3月にこのドイツ側の編集長のU. Lüttge教授が見えた折、メンデル法則再発見に話しが及んで、ドイツ植物学会誌の後身のPlant Biologyとしては、是非メンデル再発見について独、蘭、日で記事を書こうということになったのですが未だ実現していません。

最後に、もしかしたらイギリスのジョンインネス研究所の初代所長ベーテソン(William Bateson)は、メンデル再発見の四番目の人として登場したかもしかもしれないという話があります。このベーテソンは、メンデル法則発見後メンデルの遺品の発見に力を尽くし、また、遺伝学関連のいくつかの用語の創始者であり、メンデル遺伝学流布の第一の貢献者です。最近、このベーテソンをイギリス人がどう見ているかについての記事を見ることができました。私は、趣味としてイギリスの王立園芸学会に入っていますが、そこで刊行されている雑誌The Gardensの最近の号にベーテソンの記事が載っていました。そこでは、メンデル再発見に就いて上記三名は全く登場せず、いきなりベーテソンで始まるのには驚かされました。このベーテソンについては、私は小石川植物園が保有するメンデルの論文の載っているブルノの自然科学協会紀要との関わりで推定してみたので、その概略を紹介致します。発端は、本業の研究の方で当方の開発した実験系を先方で使っているからで、1993年に要請を受けて訪問したところ、研究所の廊下に明らかに日本のものと思えるカキツバタの絵がかかっていました。尋ねると興味があるならと研究所の稀観書を収める特別室へ連れていって下さいました。そこで、件の絵は、三好学教授がかつて編集したサクラとカキツバタのフォリオであることがわかったのですが、その他に見せて下さったものを見て驚きました。ナポレオンが編集したフォリオで世界に一冊しか残っていないものを初めとして、実に壮観なものでした。その中には、もちろんメンデルの文献もありました。後で知ったのですが、ベーテソンは、これら植物学関連貴重書の収集では最も著名な人であったのです。そして、我が小石川のメンデルの論文の載っている冊子には、ジョンインネス研究所の廃棄の印が押してあるので、多分ジョンインネス研究所には複数のメンデル文献があって、それを処分したのが古書店を通じて、外貨消費に政府が努めていた時点に購入したものであろうと思います。それから、しばらくして1997年に再度訪問したおりに、かつて案内してくれた司書の女史は停年で辞められ、後任はなくなったとのことでした。

遺伝学誕生にはドラマがあり、日本へはそのドロドロしたところは削ぎ落とされて伝わっているのでそれらの一つの話として読んで下さればと思います。

(ながたとしゆき:東大・院・理学系研究科・教授)